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IKEDA Stories

後編

長崎オランダ村

長崎オランダ村は、どういう経緯で手がけられたのですか?

長崎とは海軍時代から深い縁があるんだよ。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻でアメリカにボロボロにやられても生きて帰ってきた母港が佐世保港だった。その時、近くにあった美しい大村湾が気に入って、いつか平和な時代が来たらこんなところに住みたいと思っていたんだ。

戦後はすっかり忘れていたんだけどある縁でそのことを思い出して、大村湾に行ってみた。するとやっぱりすばらしいと感じて、当時地元の役所に勤めていた神近義邦さんという方(後のオランダ村とハウステンボスの社長)を通じて大村湾の入江を囲んでいる小さな岬の先端の土地を購入。プレハブの小屋を建てて、毎年休暇のたびに通っていたんだ。

その神近さんの友人が経営する「松の井」というレストランへよく食事に行ってたんだけど、その店主から店の改修をお願いしたいという依頼を受けたことが長崎オランダ村のそもそもの始まりなんだ。

改修するにあたって考えたことは大村湾の自然に調和した店にすること。店は国道に面していてみんな車に乗って来る。だから陸側を表玄関として重視して、裏にあった海はゴミ捨て場になっていた。でも僕から見たら入江の海の方が自然環境としてはるかにすばらしくて価値があった。特に松の井は大村湾の入江の一番奥の最高のロケーションだったから、海の方をメインの表玄関にして、船で海からアプローチしようと提案したんだ。従来の都市計画とはまったく逆の発想だね。こうして松の井を改修してオープンしたのが長崎オランダ村の出発点なんだよ。

完成したオランダ村を視察する池田さん(写真中央)

ここから「17世紀のオランダを再現する」という発想のもと、どんどん施設が増えていってテーマパークになっていくんだけど、この発想は神近さんのものだった。鎖国時代、長崎とオランダは密接な関係にあったから、長崎といえばオランダということだったんだろうね。それから僕も実際にオランダに視察に行ったり、専門家に聞いたりして本格的にオランダの建築や国造りを勉強した。するといろんなことがわかった。

例えば、オランダの国土は元々低湿地帯で、海面より低い位置に国を作っている。だから台風や高潮に備えて堤防を作って守ろうとしたんだけど、嵐が来るたびに堤防が決壊して町が何度も水害にあっている。それでもオランダは自然を人為的に排除するのではなく、共存するという思想で自然を非常に大事にして国造りを行ってきた。だから今でもオランダはあんまり近代化は進んでいないんだけど、非常に豊かな生態系が残されているんだよ。

それでオランダ村を造るときにね、こういうオランダの思想で造るべきだと提言したの。オランダの大使にもこういう話をしたらとても喜んでくれてね。でも環境を重視するとそれだけ経営を圧迫してしまう。経営のことももっと考えるべきだという神近さんとさんざん衝突してね。でも、最終的には環境の大切さをわかってくれたんだ。

本物の軍艦を造る

1983年のオランダ村の竣工式の時には当時のオランダ国務大臣のヴァン・エッケルさんが出席してくれた。その上、大帆船時代の世界最大の軍艦である「プリンス・ウィレム」号のモデルを寄贈してくれたんだ。さらに神近さんはそのモデルを見て本物を造ってオランダ村に設置しようと言い出した。船の知識をもってるのは僕だけだったから僕が「プリンス・ウィレム」号建造の発注者になって、オランダで全部造ってスエズ運河を通ってシンガポール経由で日本のオランダ村まで輸送したんだよ。その時ちょうど出張でシンガポールにいたから「プリンス・ウィレム」号に乗って日本まで帰ってきたんだ。

こういういろんなことを考えてチャレンジしたことで、オランダ村は来場者の車で付近が大渋滞するほど大成功したんだ。

1985年、オランダで建造した「プリンス・ウィレム」号をオランダ村へ輸送した頃の写真

ハウステンボス

その後、池田さんは1988年、64歳の時にハウステンボスの建設に着工するわけですが、この時にすでにハウステンボスの構想があったのですか?

ハウステンボス建設中に撮影(右から2人目が池田さん)

いや、それはまったく考えてなかった。そもそもは長崎県が景気対策で大村湾の入り口の一角を埋め立てて工業団地を作ったんだけど、工場が全然誘致できなくて広大な土地が放置、ゴミ捨て場になってた。当時の長崎県知事が長崎オランダ村の大成功を見て、その土地を何とか活用してくれと神近さんに泣きついたのがそもそもの始まりなんだよ。

それで調査してみるとゴミ捨て場になってたから自然環境がズタズタに破壊されていて生態系も瀕死の状態だった。しかも大村湾の一番大事な入り口だからね。大村湾ってね、すごくいいところなんだよ。世界的にも珍しい閉鎖海域でまるで大きい湖みたいな感じなんだ。スナメリというクジラも10万年前から生息している。だからハウステンボスを造る前に、このすばらしい大村湾の自然環境と生態系を蘇らせなきゃと思って土壌の改良から始めて、40万本の木を植えたんだ。

そしてハウステンボスはただのオランダのテーマパークではなく、ここに環境にやさしい21世紀の理想的な循環型都市を造ろうとして取り組んだんだ。

町づくりとして取り組む

そのために例えばどんなことを工夫したのですか?

当時の最先端の技術を駆使していろいろやりましたよ。例えば場内に下水浄化施設を作って、場内で使われた水をきれいにしてトイレの水として使ったり、自家発電装置も作って、場内の各施設を動かすエネルギーを自前で生み出せるようにした。大勢の人が来るからゴミも大量に出る。その量1日5トン。そのゴミ処理施設も作って、生ごみはコンポストに運んで馬糞と混ぜて場内の森や花畑の堆肥として使ったりした。

ハウステンボスを訪れたジャック・ニクラウスと

あと大きかったのは、コンクリート護岸だったのを全部取り壊して自然石の護岸に変えたことだな。自然護岸は隙間があって、陸と海の栄養が交換できるから微生物がいっぱい発生してそれが小魚のエサになる。だから豊かな生態系が作られる。

陸と海の境目は生態系で一番大事でデリケートなところなんだな。それを隙間のないコンクリートで固めちゃうと水辺の境の微生物が生きられないから生態系が作られないんだよ。だから全部自然護岸に変えたわけ。あとは船で大浦湾のゴミの収集もやったな。

ハウステンボスだけきれいになってもしょうがない

でもそれは直接ハウステンボスの経営には関係ないですよね。
なぜ莫大なお金と手間をかけてそんなことを?

ハウステンボスだけきれいになってもしょうがないからだよ。ハウステンボスは大村湾の一部なわけだから、大村湾の生態系を回復させ、海をきれいにすることが結果的にはハウステンボスを豊かにすることにつながるんだ。

さっきも言ったけどハウステンボスは町づくり。海がきれいになると陸もきれいになるからね。だからオープンしてから15年経って大村湾は生き返って今、すごくいい海になっているし、ゴミ捨て場だったところは豊かな森になっているんだな。

あの雪の日の思いが何十年も経って結実したわけですね。

でもいいことばかりじゃなかった。そういった環境面に莫大なお金をつぎ込んだから経営的には難しくてね。そもそも循環型の町づくりに民間企業が取り組んで利益を出すのは無理があるんだよ。本来は町づくりなんだから国がやるべきこと。

僕も神近さんもある程度採算ラインに乗ったら国に寄付して本物の町にしてしまおうと考えていたんだ。でもその前、2003年に経営破綻してしまった。今は経営者が替わって好調のようだね。

ハウステンボスにて自ら操船する池田さん(1996年)

池田研究室

池田さんは1989年に日本設計の社長を引退して会長に、それも1994年に辞任してますよね。それからはどのような活動を?

そこからは本当にやりたかった21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求するべく、70歳の時に「池田研究室」というのを立ち上げて、無償で全国の地域おこしの相談に乗るようなことを始めたんだ。これも社会貢献したいという気持ちからだった。

立ち上げてから2年後くらいに秋田市役所から連絡が来てね。鵜養(うやしない)という山間集落が過疎化が進んでいてこのままだと消滅してしまうから何とかしてほしいという相談だった。

池田研究室を立ち上げ、全国各地で講演を行っていた池田さん

それで鵜養に行ったんだけど、そのとき、大きな衝撃を受けた。日本の原風景そのものといえるくらい昔ながらの豊かな自然が残されていて、江戸時代の生活・風習・文化をそのまま伝承している集落のように見えた。故郷に帰ってきたような、とても懐かしい気持ちになったんだ。

それで、この鵜養を21世紀の日本の理想郷だととらえて、自然の恵みを受け調和する生き方を次の世代にどう残していけるかを考え、過疎化が進む山間集落を活性化するモデルにしようと積極的に関わることにしたんだ。

具体的にはどういう関わり方をしたのですか?

秋田市役所の職員や鵜養を元気にしようという思いに共感して集まった地元の人々と一軒の空き家を拠点にして定期的に勉強会を開催するようになった。これが後に池田塾と呼ばれるようになったんだ。池田塾では地元の古老から明治、大正の日本の風景の中でどういう暮らしをしていたかを聞くことで、自然と調和した生き延びる知恵がたくさん学べたな。村の中でその学んだことを実践したりして、一時期は村がかなり活性化したんだよ。

鵜養での勉強会でレクチャーする池田さん
古くから地元で暮らす人々からさまざまなことを学んだ(写真は炭焼き体験)

鞆の浦での活動

鵜養以外にも印象に残っている地域はありますか?

広島県の鞆の浦もすごくいいところだったなあ。あそこの港はね、いまだにコンクリート護岸一切なしで、江戸時代に作った石造りの港をそのまま使ってる日本唯一の港町なんだよ。潮の干満でいつでも船が着けられる雁木や常夜灯も現役で活躍してるすばらしい港だよね。石造りの港だからすごく水が綺麗で生き物が豊富なんだ。昔ながらの町並みもすごく風情があって、世界遺産にしてもいいくらいだと思うよ。

鞆の浦といえば宮﨑駿さんの監督作品「崖の上のポニョ」のモデルとなったところで、一時期、湾を埋め立てて橋を建設する計画が持ち上がっていましたが中止になりましたよね。

そうそう。地元の長老たちや市・県の行政は港を埋め立てて橋を作りたがっていた。でも30、40代の若手は古い町並みを守りたいと反対していた。僕個人の立場としてはもちろん反対だった。鞆の浦に数十回通って両方の意見を徹底的に聞いたんだけど、推進派も反対派も鞆の浦をよくしたいという気持ちは同じだった。違うのはその手段で、それを決めるのはあくまでもそこに暮らしてる住民なんだよね。だから僕は1996年、朝日新聞の「鞆の浦の埋め立て・架橋をめぐって」の特集に「理想都市『鞆』マスタープラン」を発表したり、住民に向けて「敬愛する鞆の皆様へ」を書いていったん鞆の浦の問題から退いたんだ。

その後、反対派の若手の活動が世論の支持を集めて、鞆の浦の埋め立て・架橋は中止になったんだ。本当によかったよねえ。日本の町づくりの原点を今に生かしている日本唯一の場所だからね。

ここでも池田塾をやって、空き家の民家を借りて修復して、鞆の浦で店を始める若い人たちのリフォームの相談に乗ったり、町おこしの相談にも乗ったりしてたんだよ。例えばここには江戸時代の井戸がいまだに残っていたんだけど、初めて行った時にその井戸がゴミ捨て場になってたからゴミを除去して掃除したら、清水が湧き出て今は自然の井戸水になっている。昔ながらの井戸替えの儀式をやったわけ。

それと、ここには昔から「鞆の浦に入ったら鞆の浦のルールに従え」というルールがあって、それができる人しか鞆の浦に入れなかった。江戸時代から独立した自治区のようなところだったんだな。そのルールにもちゃんと意味があるんだよね。やっぱりその土地にはその土地ならではの作法があってそれを守った方が安心・安全に楽しく暮らせるはずだからこの思想を今一度見直した方がいいと思うよ。

現代を生きる人々への提言

写真左/第二艦隊海上特攻戦没者第16回合同慰霊祭にて。矢矧乗組員と(前列右端が池田さん) 写真右/海軍兵学校第35分隊会にて(最前列右から2人目が池田さん)

池田さんから見て今の日本はどう映りますか?

いい面と悪い面の両方がある。いい面は、戦後間もない頃と比べると、社会的に自然を大事にする風潮がかなり強くなってきたこと。悪い面は現代人は贅沢に慣れすぎてるよね。もっと質素でいいと思う。

命を投げ出して国のために戦ったのに、今の日本を見てがっかりするようなことはないですか?

そういうことはあんまりなかったなあ。それよりも戦後は珍しいことばかりで、いろんな新しいことを経験したから、そんなことを思う暇がなかったね。僕は元々好奇心旺盛で、いろんなことに興味がある。生きてると「へ~!」と思うようなことにいろいろ出会うから、これまでの人生、すごくおもしろかったよ(笑)。

今の日本の人々に伝えたいことは?

近代の日本人は自然があまりにも厳しいものだからコントロールしようとした。それによって確かに近代技術文明が発達してきたんだけど、そもそもそれが根本的な間違いなんだよ。

自然科学は自然を征服するんじゃなくて、自然の恵みをいかに引き出すかを考える学問。その原点に立てば自然を敬う心と一致するはずなんだ。昔の日本人はそれができていた。

やっぱりね、どんなに科学技術が進歩しても自然にはかなわないんだから、恐れ敬うという心が必要なんだよ。そもそも自然を神として敬うのが日本本来の文化で原点でしょう。古来、日本にはすべての自然のものに神が宿っているという八百万の神という思想があったわけだからね。それに、昔の日本人は人間の寿命よりもはるかに長い何百年も生きている木は神様の木、神木として注連縄を張って敬っていたし、昔の日本の集落には鎮守の森が必ずあった。でも今は随分減っちゃったでしょ? 村や町を作ったら、人々の精神的な拠り所となる空間をどこかに作らなきゃいけないんですよ。

この精神的な空間というのは村や町だけじゃなくて個人の家にも必要だと思う。個人宅の場合は神棚や仏壇がそれに当たるんだけど、若い時の僕にはそれがわかっていなかった。33歳の時に渋谷の代々木公園の近くに自分の家を建てたんだけど、神棚や仏壇を置くスペースを作らなかったんだ。その後、僕の娘が若くして亡くなったんだけど、娘を家の中に祀ろうとしたら、仏壇がなかったことに初めて気がついた。我ながらびっくりしてね。昔はどんなに貧しい家でも神棚や仏壇があったんだよ。東京の下町の長屋でもね。でも自分で設計した家には精神的な空間がなかった。これはショックだったね。大反省してすぐに神棚と仏壇を作って娘を祀った。どんなに近代化しても精神的な空間はなくちゃいけない。機能性や利便性も大事なんだけど、精神的な空間を大事にするということを忘れちゃいけないんだ。

池田さん(写真最前列左)はC.W.ニコルさんとも数十年来の親交がある。2015年のエコプロではオカムラのブースで対談を行い、自然環境保護の重要性を訴え、行き過ぎた近代技術文明の追求に警鐘を鳴らしている

こういうことは近代的な合理主義からいったらほとんど何の意味もないように思えるけど、実はそれが日本の原点。その考え方を近代技術文明が進めば進むほど大事にしていかなきゃいけないと思うよね。自然に逆らって近代建築を推し進めると痛いしっぺ返しを食らう。それは阪神淡路大震災や東日本大震災を見ても明らかでしょう。

東日本大震災の被災地の中には、もっと防潮堤を高くする工事を行っている町もありますが。

防潮堤の嵩上げは神に対する冒涜だと思うよ。どんなに人間の力で高くしたって、それを自然の力は簡単に上回る。だからあくまでも自然を畏れ敬って、逆らわないで生きていくことが大事なんだよ。

それに、現代の近代技術文明が発達するにつれて、つまり人間の暮らしが便利になるにつれて、自然と人間の生活がどんどん乖離している。これは大きな落とし穴だと僕は思うね。近代技術文明が便利だからといって、健康な若い人が盲信してどっぷりハマると精神が堕落してしまう。そのことをはっきりと峻別して、自分がどういう人生を送るべきかを考えることが重要だと思う。これが僕の一番伝えたいことだね。

人間も自然の一部

これまで話した通り、太平洋戦争末期、沖縄海上特攻で乗っていた矢矧が沈められて海を漂流しているとき、子どもの頃に過ごした家のことが頭に思い浮かんで、もう一度あの家の畳の上で寝そべりたいと思った。

その時のイメージが鮮明に残っていて、戦後建築家になって超高層ビルの設計を散々したけれど、やっぱり人として近代技術文明の粋を結集した超高層ビルに住んだらダメになると思い、社長を辞任した後、自分の住処は長崎の海辺に日本古来の家を設計して暮らした。そこはとても居心地がよかった。やはり人間は自然の一部なんだから、自然の中で生活することが一番いいんだと心底思ったんだ。

僕らは近代技術文明に毒されすぎているんですよ。それに頼りすぎると身も心も必ずおかしくなる。健康な心を育むには、できるだけ自然の中で暮らすことが大事。自然の中で自然の恵みを受ける。やっぱり暑い時は暑い、寒い時は寒いと、自然を体感しながら生活するのが一番いい。特に成長期の子どもはね。

でも一回便利な生活に慣れちゃうとなかなかそれ以前に戻るのは難しいですよね。

そうだね。本来は人間にとって何が幸せなのかを考えなきゃいけないんだけど、今は技術で何でもできちゃうし、多くの人はそれに慣れちゃって便利さを追い求める。人の欲望が便利さとか経済の方に行っちゃってる。でも、こういう現代から延長した将来にはあまり希望がもてないんじゃないかな。そうすると結局滅びるよね。もっと原点に戻って自然を大事にしなくちゃね。

だけどね、僕の考えはいろいろ話したけれど、一方で今の若い人にそれを押し付けちゃいけないとも思っているんだよ。今は価値観が人それぞれ、いろいろあるじゃない。とんでもない意見だと思ってても、詳しく聞くとなるほどと思うところもある。だからといって僕自身の考え方を変える気は毛頭ないんだけどね。

僕自身のやることを見て学ぶところがあると思ったら学んだらいいし、批判するならしてもいい。批判する人の言い分もそれなりに信念があるなら、自分のやりたいようにやってくれという感じ。そうするしかないと思うんだよね。

建築論

人にとって建築とはどういうものであるべきだと思いますか?

よく衣食住というけど、建築は我々人間が生きていくために欠かせない存在。しかも建物は人間を育てる場でもある。どういう家で育ったかということがその人の性格とか人間性、将来にものすごく大きな影響を及ぼすから、そういう意味において建築は人間社会にとってものすごく重大なものだよね。だからこそ今、建築というものをもう一度見直して、この建物は人間にとって本当に必要不可欠なものかどうかという視点を常にもっていないといけない。これが僕の建築に対する基本的な考え方です。

仕事論

戦後、戦没者追悼など長年の平和への功績が認められ、海上自衛隊から感謝状を授与された

池田さんにとって働くということはどういうことでしょう。

仕事として何かをするということは人間だけにできること。そこが他の動物と違う点。そういう意味でね、とても重要でおろそかにしちゃいけないことの1つだと思う。

戦争中は国を守るために、戦争が終わってからも国の復興のために働いてきたわけですが、働くことに対する思いは?

祖国のために働くというのは一貫してるね。

自分のためにと思ったことは?

それは1度もなかったなあ。確かに働いたら結果的に自分のためにもなるんだけど、それはあくまでも結果であって目的ではない。何のために働くかで、最初に「自分のため」が来るのは嫌だな、僕は。

まずは「国や人のため」がある。働くことが自分のためだけだったら僕はちょっとさびしいなあ。まあ僕の場合は時代のせいもあるけど、そもそも自分のためという発想がなかったからなあ。

61歳でヨットレースで優勝

現役でバリバリ働いていた頃、家族との時間は取っていたのですか?

いや、現役のときは仕事一辺倒だった。ただ、海と船が大好きだから、会社に入ってからヨットを買って、5月やお盆、年末年始の休暇には家族をヨットに乗せて伊豆七島や九州まで出掛けてました。ヨットの名前はやっぱり「矢矧」。ヨットレースにも出場して、1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースで優勝したんだよ。

矢矧には3代続けて、80歳を過ぎても乗ってたんだけど、最後は長崎ハウステンボスに寄付しました。行けばいつでも乗れるようになっていたんだ。今でもたまに海には行きますよ。もう眺めるだけだけどね。やっぱり海を見ると非常に心が安らぐんだ。海は僕の原点だからね。

最後の船となった矢矧Ⅳ。右は池田さん自身が描いた矢矧。絵の腕もプロ級である
61歳の時、チームキャプテンを務めた小笠原ヨットレースで優勝
矢矧Ⅳ建造中(コクピット部分)
矢矧Ⅳの竣工式

とにかく後顧の憂いなく世のため人のために全力で働けたのは妻や子どもたち、家族のおかげだよ。それは痛感してる。だから今、妻があまり健康ではないので、妻のために尽くさなきゃと一所懸命恩返してるつもりだよ。

邦久庵

池田さんは2001年から10年間、長崎県の大村湾にご自宅を建設されて実際に住んでいたそうですね。

長崎県の大村湾に土地を買ってプレハブの小屋を建てたことは前にも話したけど、本格的に住むためにちゃんとした家を建てようと思ったんだ。

若い時に散々近代建築をやってみてわかったんだけど、日本の場合、近代建築よりも江戸時代の建築の方が優れているんだよ。エアコンなんかなくたって、快適に暮らせる。だから大村湾に建てた家は茅葺屋根で、釘も1本も使っていない昔ながらの日本の伝統工法を使ったんだ。この家は自分の名前と妻の名前から1字ずつ取って「邦久庵」って名付けた。

木材は地元で採れたものを使用して地元の大工さんに建ててもらった。やっぱり家を建てる際はその土地の気候風土で育った木を使うのが一番いいんだよ。この家は地産地消と伝統工法の伝承を目的として建てたんだ。囲炉裏のある居間と台所と畳の寝室だけの質素な造りで、もちろんエアコンなんてなかったけどこの家で暮らした10年間はとても楽しかったなあ。自然と調和した暮らしでね。大村湾に面した広いデッキからは毎日海が眺められるし、朝日と夕日を毎日拝んでいると、太陽が出たり沈んだりする位置が微妙に変わっていくのがわかるんだ。こんなことは都会のコンクリートで覆われた家に住んでてもわからないよね。

2001年、大村湾の岬の先端に建てられた邦久庵。現在は損傷がひどくなっているという
邦久庵のデッキ。目の前に広がる大村湾を眺めながら過ごすひと時は格別
邦久庵の囲炉裏(写真左)と和室(写真右)

今後の人生をどういうふうに過ごしたいですか?

今後も何も、僕に残されている時間はあともう少ししかないから、1日1日大事にしようと思ってますよ(笑)。もうとても大それたことはできないから、とにかく人に迷惑をかけないように残りの人生を生きていきたいよね。今は与えられた命を無駄にしないように健康には気をつけてます。

毎日東京の郊外にある自宅の近くを散歩してるんだ。ちょっと歩くと小川が流れててね、水が湧き出てて、大きな鯉が泳いでいる。歩くといろんな風景が見られて楽しいよ(笑)。

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