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IKEDA Stories

中編

戦地に取り残された兵士のために

終戦後はどういう任務に就いたのですか?

まだ南方の戦地に残された陸軍の兵士がたくさんいたから、彼らを船で日本に連れて帰る復員局の復員官に任命されました。船がほぼ全滅してたから、残ってた「酒匂」(さかわ)という矢矧の姉妹艦で、戦争が終わる直前に完成した軽巡洋艦を復員船にして、分隊長として南方の島に行ったんだ。

その時の航海は忘れられないね。戦争中はちょっとでも海に出れば敵の潜水艦や航空機がいつ襲ってくるかわからないから一瞬も気が休まらず、常に神経がピリピリしてた。でも戦争が終わったらそれがないわけだ。攻撃がない航海、こんな楽なものはないですよ(笑)。針路さえ決めればそのまんまただ進んでいけばいいんだから安心して航海ができる。平和な航海ってなんていいんだろうって思った。その時の航海が非常に印象に残ってるね。

東京大学に入学

酒匂で兵隊さんをたくさん乗せて横須賀に入港して、事務所で次の航海の計画を立てていたとき、突然、父 親が現れた。職場まで来るなんて何の用だろうと思ったら、「大学に行きなさい」と東京帝国大学の入学願書を差し出してきたんだ。マッカーサーが、元軍人でも全学生の一割の範囲なら大学に入れてもいいという許可が出たらしいんだな。それを親父は新聞で知って職場まで来たんだよ。僕はそんなことは知らなかったから大学に行くなんてことは夢にも思っていなかった。それに、外地に大勢取り残されている兵隊さんたちを完全に内地に輸送するまでは復員官をやろうと決めていたから「大学に行く気なんてありません」と断った。でも親父は「お前はもう十分国のために尽くした。大学へ進む道もあるんだから、とにかく受けるだけ受けてみろ」と強く言うもんだから、断りきれずに受験することにしたんだ。でも受験日まであと1ヶ月しかなかったから今から勉強しても受かりっこないと思ったね(笑)。

どんな学科を選んだのですか?

建築学科だよ。建物が全部壊されて焼け野原になった日本の風景を見た時ね、国を守るという使命をもって海軍に入ったのにそれが果たせなかった、軍人として負けた責任をすごく感じていた。だからせめて日本の復興に貢献できる職業に就こうと建築学科を選んだわけ。もうお国のためとかさ、そういうことしか考えてなかった。自分がどうなりたいとかは全く考えてなかった。純情だったな、あの頃は(笑)。

建築学科を選んだ理由はもう1つある。幼少期から成人するまで住んでいた藤沢の家が、早稲田大学の建築科を出た僕のいとこが設計した家だった。その家は地味な造りだったんだけど、自然の特性をうまく利用していて夏は涼しく、冬は暖かい快適な家だったから大好きだったんだ。だから海軍士官以外、知っている職業は建築家だけだったから建築科を選んだというのはあるね。

さらに言えば、沖縄海上特攻で矢矧が沈んで海を漂流していた時、その藤沢の実家の風景が脳裏に浮かんだんだよ。夏、障子を開けると川辺から涼しい風が吹き込んでくるんだけど、その風を感じながらただ畳の上で大の字に寝転ぶのがなんとも気持ちよくてね。その感覚が蘇ってきて、もう一度実家のあの畳の上に寝転びたいと思った。そういうことももしかしたら建築の道へ進む1つのきっかけになっているのかもしれないね。

それからは受験まで1ヶ月しかなかったけど、やるからには全力を尽くそうと昔の兵学校の教科書を引っ張りだして猛勉強したよ。兄たちも手伝ってくれてね。そしたら運良く勉強したところが試験に出て受かっちゃったんだ。よもや受かるとは思っていなかったなあ。当時は勉強どころじゃなくて受験する人も少なかったから戦後のドサクサで受かったようなもんだね。翌年以降だとまず受からなかったと思う。そういう幸運もあって1946年4月、東京帝国大学第一工学部建築学科へ入学したってわけだ。

東京大学建築学科の学友と(最前列左端が池田さん)

東大に合格していなかったら建築家にはならなかったわけなので、その後の人生は大きく変わっていたでしょうね。

まったく変わってただろうね。落ちてたら船乗りになってずっと海の上にいたでしょう。やっぱり僕は海が好きだから。戦後、海上自衛隊に入った戦友もいたしね。

大学での建築の勉強はどうでした?

楽しかったよ。僕は元々絵を描くことなどクリエイティブなことが好きだったから。あの頃は学生も食うや食わずだからほとんど教室に集まってなかった。でも僕は勉強が楽しくていろんな教授の講義を受けてたな。

設計事務所に就職

卒業後の進路は?

大学3年生の夏休みに某大手ゼネコンの建設現場に実習に行ったんだけど、非常に軍隊に似てるなと感じた。建設現場でゼネコンの若い社員が中年の職人をあごで使っているのが、海軍で士官が兵隊さんを使うのと同じような感じだったんだ。要するに職人の使い方がヘタなんだよ。職人が気分を害するような指示の仕方を大学出の若手がやってたわけ。こっちは元海軍だからさ、そういう兵隊さんの使い方はよくわかってるから僕の方が絶対にうまくできるなと思った。それでゼネコンへの興味が一気になくなったんだ。

どうしてですか? 普通はうまくできると思ったら、その会社に入って簡単に上を目指せると思うのでは?

いや、命を懸けて国のために尽くした海軍で働けなくなったんだから、次は同じ国のためでも、自分の全く知らない新しい分野で仕事がしたいと思ったんだ。だから簡単にうまくできるなと先が読めちゃう会社には興味をもてなかったわけ。

とは言っても建築界のことは全然知らないから、同級生に相談したら「山下寿郎設計事務所なら知ってるから紹介できるよ」というので彼の紹介で挨拶に行ったんだ。もちろんその設計事務所がどんな会社かも全然知らなかったんだけど、その日に「明日からいらっしゃい」と言われて入社することになった。当時は就職なんてそんなもんだったんだよ。それで1949年から山下寿郎設計事務所で働き始めたってわけだ。

未知の世界で実際に働いてみてどうでしたか?

設計の仕事は楽しかったよ。クリエイティブだったからね。それにいろんな案を出すと社長がどんどん採用 してくれる自由な雰囲気の会社だったしね。ずいぶんたくさんのコンペでプレゼンしたけど富山市庁舎や、福島県庁舎、岩手県庁舎、NHK放送センター、日本興業銀行本店などを勝ち取った。だいたいコンペの半分は取れてたから5割打者だったんだ。

山下寿郎設計事務所35周年パーティーにて(前から3列目左から2人目が池田さん)

すごい勝率ですね。そのために努力したり工夫したことは?

特別努力したなんてことはないなあ。しいて言うなら、会社の仕事が終わると東大の建築学の教授の研究室にしょっちゅう通って勉強してた。建築が好きだったんだな。その時研究してたのはモジュラーコーディネーション。例えば机の高さを決めるときに何センチにすればいいかなんてなかなか決められなかったんだけど、人間の体を基準にすれば簡単にできると思って、各部材の寸法を日本人の標準寸法に合うようにモジュールで区切る方法を編み出したんだ。それを教授が学士論文にしてみればどうかと言うから論文を書いて提出したら博士号が取れたんだ。それがその後日本の建築界では一般的になって、今もみんな設計するときに使ってるんだよ。

池田さんが日本の建築の標準を作ったわけですね。

その当時はまだ戦後間もない時代だったからね、そういう発想が全くなかった。僕は元海軍で建築のことを全然知らないから、建築界の在来の因習にとらわれず、全く新しい発想で考えることができたんだ。

入社5年目の昭和28(1952)年、29歳で中条久子さんと結婚

昼間もものすごく忙しかったと思うんですが、その後、夜も勉強してたなんてすごいですね。

その頃はエネルギーがあり余ってたからね(笑)。だって海軍時代は徹夜で何日も戦闘していたわけだから、それに比べりゃ楽なもんだよ。それに普通にしてれば殺されないでしょ?(笑)。油断したって殺されないもん。戦争中はね、ちょっと油断したらバンて殺されちゃう。やっぱり殺されないってことはね、大きいですよ(笑)。平和ってのはありがたいと思ったね。

ちなみに戦後、戦争映画を観たんだけど全く違うんだよね。確かに画面は似てるんだけど映画館では弾は飛んで来ないでしょ。安全だもんね。それと匂いね。血や煙硝の匂いがしない。実戦と映画ではこういう差があるのかと思った。当然だけどね(笑)。

では仕事でつらいと感じたことはないのですか?

建築って巨額のお金が動くから設計の受注が取れると取れないのとじゃ大違い。会社の経営にも大きく影響を及ぼすからから、コンペのチーフは責任重大なわけだ。毎回チーフとしてコンペに臨んでいたんだけど、いっとき顔面神経麻痺になっちゃったからね。自分では無自覚だったけど深層心理では重いプレッシャーを感じてたんだろうね。

やっぱり平和に慣れちゃうとね、平和の悩みが出てくるの(笑)。そんなときには部屋に貼ってた、沖縄海上特攻で火だるまにされる矢矧の写真をよく見てた。眺めてるとどんなにつらくても殺されるわけじゃないからどうってことないなと思えてくる。そして気持ちが軽くなって闘志が湧いてくる。こういうところは戦争を体験してるかしてないかで随分違うだろうね。

池田さんが部屋に飾っていた、米軍の猛攻にさらされる矢矧の写真

日本設計事務所を設立

その後池田さんはご自身の会社を設立しますが、その経緯は?

山下(寿郎設計事務所)にいた時は大規模プロジェクトのコンペをけっこう取ったから、えらく重用されてね。41歳のときには取締役に就任したりして、段々会社の中心的人材になっていった。でも山下社長が引退してから雲行きがあやしくなってきたんだ。その後、社長に就任した社長の娘婿とことあるごとに衝突していたらある日「池田くん、会社から出て行ってくれ」と言われた。クビになっちゃったんだ。

そしたら当時200人いた社員中、107人が「池田が辞めるなら僕も辞めるよ」と辞表を提出。その中には当時の副社長や専務もいたんだよ。その副社長に「新しく設計会社を作って社長になってください」とお願いして1967年にできた会社が日本設計事務所(後の日本設計)。僕も創立メンバーの1人なんだけど、今では日本国内だけではなく、世界的な設計会社にまで成長している。だから僕を追い出した当時の社長には感謝してるんだ。僕の恩人だよ(笑)。

なぜ日本設計事務所という社名に?

ちょうど会社を追い出される前の正月にね、書き初めで「日本」って書いたんだ。そしたらすぐクビになったから「日本設計」にしたというわけ(笑)。そもそも個人の名前を会社名にするようなことは絶対にしたくなかった。人間の細胞は毎日入れ替わり、数ヶ月から半年で全部新しい細胞になるといわれているけれど、その人の心、精神は変わらないでしょ? それと同じようにいろんな人が入れ替わり立ち替わりで働く人は変わっても、会社の理念はずっと変わらない。企業ってそういうもんじゃないかと思っていたからね。

日本設計事務所を設立した頃の池田さん

日本初の超高層ビルを設計

池田さんは日本初の超高層ビルである霞が関ビルを設計した方としても有名ですが、どのように設計したのですか?

霞が関ビルは山下にいた時代から設計チーフとして関わっていたんだけど、会社を追い出されて日本設計を設立してからもクライアントの三井不動産から、「実質的に設計をやっていたのは池田さんたちだから日本設計の名前で引き続き担当してくれ」と頼まれたんだ。

超高層ビルの設計はやっぱりね、これまで誰もやったことのないことをやろうってんだから、楽しくて仕方がなかったね。新しいことだし、これ以上クリエイティブなことはなかったからね。

でもこれまで誰もチャレンジしたことのないプロジェクトだからこそかなり困難だったのでは?

いやあ、さっきも言ったけど、失敗したって殺されるわけじゃないからさ(笑)。戦場のつらさと今の仕事のつらさなんて次元が違うんだよ。ただね、やっぱりこれまでになかったものを作るんだから、全く新しい発想が求められたのは確かだね。

例えばどのような発想ですか?

まず大勢の優秀な人材がその能力を最大限に発揮できるような環境を作った。その時、海軍時代の経験が生きたんだ。僕が乗っていた矢矧はすごくいい船で、艦長は普段はでんとかまえて、細かい仕事は僕たち若い士官に任せて自由にやらせてくれた。そのかわり、いざというときは艦長が全責任を負ってくれる。そういうスタイルだったから、若者が失敗を恐れずどんどん意見を出して、それが採用されてたんだよ。そのやり方をそのまま霞が関ビルを設計する時に実践したわけ。

それから、今までの設計事務所はトップに先生がいて、その下に弟子がいるという徒弟制度だったから、弟子は先生の発言には絶対服従が鉄則だった。だけど霞が関ビルのような日本初の超高層ビルは1人の先生のアイディアで全部設計するのは到底不可能。だから全く新しい方法でやったんだよ。

具体的には?

まずは、議論の場に建築以外のいろんな分野の専門家を集めて、建築家では出せない知恵を自由に出してもらったんだ。その時、意見を否定しないというルールを作った。いいものを創ろうと思ったら、どんなにつまらない意見でも絶対に否定しちゃいかん。その意見の裏には必ず理由があるわけだ。その理由を聞き出して、可能性のあるものは全部採用するというやり方を取った。だから、新人もベテランもみんな対等の立場にして、誰が言ったかではなく、どういう意見かを重視した。そのために、座席を決めちゃうと序列ができるから、床の上にみんなで車座になってさ、あぐらをかいてディスカッションする。そういう環境を作ったわけ。設計のプロセスそのものがこれまでとは全然違ったんだな。

部下の話に常に耳を傾けていた池田さん(写真左)

それ実はね、アメリカの戦術なんだよ。例えば日本海軍の神風特攻隊の攻撃に対してアメリカ海軍の船をどう守るかを議論する時、軍人じゃなくて、物理学者や音楽家などおよそ海軍の専門家とは思えないような人 たちをたくさん集めた。そしてグループにわけて自由に意見を出させ、まったくの素人の意見なのに否定をせずに、いいと思う意見をどんどん採用した。その中で実戦で採用されたのが船の周りに弾幕を張るというアイディア。それで日本の特攻機が随分やられちゃった。そういうことを戦後、いろんな文献を読んだ中で知ってこれは使えるなと。この手法を「グループダイナミクス」というんだけど、それを超高層ビルを設計する時に採用したわけ。

そうして造り上げたのが霞が関ビル(1969年竣工)であり、京王プラザホテル(1971年竣工)であり、新宿三井ビル(1974年竣工)なんだよ。それ以降、超高層ビルが全国の都市部に林立していった。だけど、僕の造る超高層ビルはあくまでも手段であって目的ではないんだ。

超高層化の真の目的

どういうことですか?

東京は土地が狭いから横に広い建物をたくさん建てたら緑が失われてしまう。だからたくさんの人が居住したり働いたりするスペースを確保するには上へ上へと伸ばすしかない。その空いたスペースに緑を植えてきたんだ。言い換えれば超高層化することで僕らは大地の上に緑を獲得できた。つまり、超高層ビルの真の目 的は東京の真ん中に緑をたくさん作ることなんだ。それは僕が設計した超高層ビルの足元を見ればよくわかる。新宿三井ビルの足元には木々がたくさん生い茂っているでしょ? 京王プラザホテルから続くあの周辺一帯を豊かな緑にして、今も都民の憩いの場になっている。みなさんも超高層ビルに行くときはぜひ足元を見てほしいね。

池田さんが設計した新宿三井ビルの足元には豊かな緑が広がっている

本当は東京都庁も含めてもっと広大な緑を作りたかったんだけど、設計コンペで丹下(健三)さんに取られちゃってね。もし僕のプランが採用されていたら、京王プラザホテルと新宿三井ビル、そして東京都庁を結んだ区画は世界に冠たる緑豊かな超高層街区の町になっているはずだよ。本当に残念なことだよね。

最大の転機

僕らは自分たちで作った最高のビルの中で働くべきだと、1974年に完成した新宿三井ビルの50階に日本設計のオフィスを移転したんだけど、このことが僕に建築家人生の中で最大の転機をもたらしたんだ。
新宿三井ビルのような当時最先端の科学技術の粋を投入して造られた超高層ビルは自然をシャットアウトして、エアコンなどの技術で1年365日暑からず寒からずな快適で理想的な室内環境を人工的に実現する。バラモン教の理想郷のようにね。実際、僕もそれに何の疑問も感じずに快適に働いていた。
でも冬のある日、朝出勤する時は雨も雪も降ってなかったんだけど、夜仕事を終えてビルから外に出たら大雪が降っていて地面に雪が積もっていた。50階ともなると、窓の外は真っ白で何にも見えないからよもや外が大雪になってるとはわからなかった。エアコンをかけているから寒さも感じないしね。

ビルの外に出たらすごく寒くてびっくりして、思わず雪が舞い降りてくる天を仰いだ。その時、とても気持ちがよかったんだよ。ブルブル身震いするような寒さなのに、自然の中に溶け込んでいくような、安らいだような不思議な気持ちになった。その時、思わず「ああ人間は自然の一部なんだな」とつぶやいたんだ。この時感じたことは今でもはっきりと覚えてるよ。

そのときはっとした。あれ? どういうことだと。今まで一所懸命、室内の温度や湿度を自動的に快適な数値に調整できる仕組みを作ることに相当神経を使っていて、その結果、人間にとって一番快適な室内環境を作ることができたと思っていた。それなのに、ビルの中から吹雪いている外に出た瞬間、気持ちいいと感じたのはなぜなのだろうと。いろいろ考えたり調べたりした結果、人間は1年中快適な人工環境の中に長時間いることで、本来生物として備わっている体温調節機能が弱まって、意識しないうちにストレスがかかって精神がおかしくなるということがわかったんだ。やっぱり人間は自然の一 部なんだよ。それで、それまで人間にとっていいと思って躍起になってやってきた快適な人工環境を作ることが間違いであることにやっと気づいたんだ。

確かに真夏にエアコンの効いた部屋にずっといると体調がおかしくなりますもんね。

そうでしょう? もちろん、病人や老人、体の不自由な人は快適な人工環境の中で保護しなきゃいけないけど、日本のような春夏秋冬のある国に住んでいる若くて健康な人はできるだけ自然に近い環境の中で、体で四季を感じた方がいいんだよね。

同時にもう1つ感じたことがあった。高度成長期には超高層ビルや工場がどんどん建ち、車も爆発的に増え、高速道路ができ、人々の暮らしは確かに豊かになった。

日本設計事務所時代の池田さん

でも一方ではどんどん自然が破壊され、大気や河川、海が汚染され、公害病が蔓延した。それまで近代技術文明が進歩すればするほど人間にとって理想的な都市が作れると思っていたけど、人間の都合のいいように自然環境を変えていくことは逆に人間を不幸にするんじゃないかということも強烈に感じたんだ。

次々と超高層ビルを設計していた頃の池田さん(写真中央)

今まで日本の復興のためにとにかく近代化をしなきゃいけないと思って最先端をひた走り、超高層ビルを次々と設計して超高層ビルの第一人者なんて言われるようになったもんから得意になって、さらにその方向に突っ走っていった。40代、50代の一番の働き盛りのときは僕には何でもできるぞという勢いがあった。でもそういうことに気づいて、これまでとんでもないことをしてきたんじゃないかという不安が頭をよぎった。あの雪の日の体験以来、自分がこれまで正しいと信じてやってきたことに疑問をもったわけだ。

同時に、それまで仕事一辺倒でほとんど家庭は顧みなかったんだけど、父親としての生き方も見直して、週末には家族を誘って僕のヨットで海に出かけるようになったんだ。ヨットの名前はもちろん「矢矧」。湘南の海をはじめ、長い休みの時には伊豆七島や九州などいろんなところへ出掛けたなあ。

池田さんは40歳の時に2人の仲間とヨットを共同で購入。以降2艘のヨットを乗継ぎ、「矢矧」と命名。趣味で乗るほか、数々のヨットレースにも出場、入賞している

でもね、かといってすぐに建築の方向を転換することはできなかった。本当に近代技術文明を追求することに問題があると確信をもって言えるまではね、時間がかかりましたよ。それはとても重い決断だった。だって今まで日本の復興のためにこれが正しいんだと信じ込んでやってきたこと、しかも成功してきたつもりだったから、それを根底から覆されるのは、敗戦の時に感じたショックと同じレベルの衝撃だったからね。

それにね、数百名の社員とその家族を入れたら数千人の身内の生活を守る責任が経営者としての僕にはあった。そのためには超高層ビルのような大規模な案件を手がけなければいけなかった。その葛藤の中で編み出したのが、建物の中にいる人たちが四季の自然の空気を感じられるような技術。その代表が1988年に完成した新日鉱ビルで、世間からは高い評価を得たんだけど、超高層ビルそのものに疑問をもっていたからとても理想の建築とは思えなかったね。

それでも少しずつ、本来の日本家屋、子どもの頃に住んでいた藤沢の家のように、冬は日当たりよくて暖かく、夏は風通しがよくて涼しい、その土地の気候風土にマッチした、より環境に配慮した建築を目指すようになった。本格的にそれに取り組んだのが長崎オランダ村なんだよ。

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