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IKEDA Stories

前編

海軍兵学校に入学

池田さんは大正13(1924)年生まれの現在92歳とのことですが、子どもの頃はどんな暮らしだったのですか?

元々僕の父母が住んでいた家は鎌倉にあったんですが、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊しちゃって静岡県に避難しました。僕は翌年の1月、その避難先で生まれました。その後、2歳の時に神奈川県藤沢市に引っ越して、中学校まで過ごしました。当時の藤沢は田んぼと畑が広がり、池や小川が流れるのどかな田園地帯で、人々の暮らしや子どもたちの遊びも江戸時代とそれほど変わらない感じでした。その頃住んでた家も江戸時代の家と同じような感じの家でね。これが後の僕の人 生に大きく影響することになるんですけどね。それはまた後でお話しましょう。

自身が中心となって設計した新宿三井ビルで

子どもの頃から海が大好きで、父も海軍士官で山本五十六と同期で明治37、8(1905、6)年の日本海海戦(日露戦争)にも参戦しているから、大きくなったら海軍に入りたいと思っていました。中学入学の翌年に二・二六事件が起こったので、子ども心にも世の中が不穏な空気に包まれていることは何となく感じていましたね。

中学5年生の時、かねてから希望していたとおり、江田島の海軍兵学校に入学。兵学校はそれはもう厳しかったですよ。毎日理由もなく最上級生からぶん殴られてましたからね。しかし、そこには戦場で死に直面した中でも冷静に行動しうるための修練の意味があったと僕は考えています。

江田島の海軍兵学校へ出発する際に家族と撮影(前列中央が池田さん)

太平洋戦争が始まったのは入学の翌年です。もうアメリカとの戦争は近いと肌で感じていたので、いよいよ始まったかと気が引き締まる思いでした。開戦すれば我々は最前線に出撃していく立場ですからね。ただ、真珠湾攻撃があった日、兵学校の井上校長が「戦争は始まったけれど、今は戦争のことは考えずにひたすら兵学校の生徒としての本分を尽くすことに専念せよと」という訓示を述べられた。いまだに覚えてますね。

海軍兵学校第72期の同期と(後列右端が池田さん)

ただ、戦争が始まったことで、本来なら4年で卒業するのが2年8ヶ月に縮まり、そのせいでアメリカまで船で行く遠洋航海実習がなくなったことが残念でしたね。今はみんな当たり前に飛行機で太平洋を横断するけど、当時は船でしか横断できなくて、横浜からシアトルまで2週間かかったんですよ。飛行機で太平洋横断しようと特別な飛行機を設計してチャレンジした若者が3、4人いたけどみんな行方不明になってたしね。そんな技術力でよくもまあアメリカのような大国と戦争しようなんて考えたよね。

卒業後は、当時建造中だった帝国海軍最新鋭の軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の艤装員として配属されたんだけど、「矢矧」は超極秘裏に建造された船だったから、完成して進水式をした時も「矢矧」という名前は出さないで矢と萩の葉をあしらった手ぬぐいが振る舞われた。僕が着任したときもまだ矢矧という正式名称は公にされていなかったんだ。

竣工10日前の12月19日、公試時に撮影された矢矧。煙突の後ろに零式水上偵察機2機が搭載されている

マリアナ沖海戦

何度かの訓練を経て、昭和19(1944)年6月、マリアナ沖海戦へ出撃。当時僕は20歳の海軍少尉で、これが初めての実戦となった。連合艦隊の水雷戦隊の旗艦として駆逐艦8隻を率いた矢矧の任務は、第一航空戦隊の護衛だった。その時、帝国海軍が誇る連合艦隊は健在で、巨大戦艦「大和」「武蔵」をはじめ、「翔鶴」「瑞鶴」などの空母も全部そろってた。連合艦隊は各艦の距離1000m~1500mくらい離れて編隊を組んで航行するんだけど、矢矧の艦橋から前を見ても後ろを振り返っても水平線の彼方まで日本海軍の艦が見えたんだよ。それは勇壮な景色だったねぇ。この無敵の連合艦隊がこの時からわずか1年足らずで全滅しちゃうんだから。あれほどの負け戦はないと思うし、この時は想像すらできなかったよ。

矢矧でどのような職務を担っていたのですか?

僕は航海士として、船位測定、操舵、見張り、信号、戦闘の記録、敵潜水艦のスクリューの水中聴音など、航海長をサポートするための仕事は全部やってた。

戦闘はどんな感じだったのですか?

戦場は「惨憺」という言葉しか思い浮かばないような残酷な現場だった。矢矧はほとんど無傷で、大鳳や翔鶴など他の船の負傷した兵を救助して手当てをしたり、戦死した兵を水葬したりしていたんだ。当時はよく新聞で「壮烈なる戦死を遂げ」なんていう言葉が使われたけれど、そんな華々しさは微塵もなく、実態はこれ以上むごたらしいものはないというくらい全部むごたらしい死だった。だから「壮烈なる戦死」という言葉がいかにイメージを変えるかということだよね。初陣となったマリアナで、戦争ってこういうものなんだということが初めてわかったんだ。

マリアナ沖で米軍の攻撃を受ける空母「瑞鶴」と2隻の駆逐艦

この時、戦闘記録も取ってたんだけど、後で読み返したら誤字脱字が多くて恥ずかしい思いをしたなあ。矢矧自体はほとんどやられていないにも関わらずだよ。自分では平気なように思っていても相当緊張していたんだろうね。いかに修業が足りないか痛感したよ。
結果は、空母3隻と搭載機のほぼすべてに加えて、多くの潜水艦も失う壊滅的敗北だった。これにより、西太平洋の制海権と制空権を完全に失うことになった。だから、今から考えたらこの時点で勝敗は決していたといえるかもしれないね。

対空砲火によって撃墜された日本軍の機体

レイテ沖海戦

その4ヶ月後のレイテ沖海戦の時も矢矧の航海士 (中尉)として参戦したんだけど、この時はもうほとんど航空機もないし勝てるなんて思ってないよね。戦(いくさ)をどのくらい長引かせるかということしか考えてなかった。連合艦隊はアメリカ海軍の航空機と潜水艦の両方からやられたからひどいもんだったよ。出撃してから帰還するまで1週間くらいだったけど、その間敵の猛攻にさらされて立ちっぱなし。仮眠なんてとてもできなかった。いつ敵の攻撃が来るかわからないから。

よく体力と精神力がもちましたね。

いやいや、そりゃあ当然だよ。そのために兵学校からずっと鍛えてるんだからもたなきゃおかしいんだよ(笑)。

レイテ沖海戦で攻撃を受けている戦艦「武蔵」、奥は護衛に付けられた駆逐艦「清霜」

戦闘の方は、今度は矢矧も敵の攻撃を受けて、兵学校のクラスメートや上官が次々と目の前で死んでいった。戦争で死ぬというのはね、交通事故なんて比べ物にならないくらいむごたらしいものだよ。そこら中に手足や肉片や内臓が飛び散って、甲板なんてまさに血の海。でも僕らは戦闘中はそれを放置したまま戦わなきゃいけない。血と硝煙の匂いがすごいんだ。

敵機の爆撃が収まった少しの合間に応急食料の乾パンを食べようとしたら赤黒い色になってるんだよ。爆撃や機銃でやられた仲間の血糊で染まってたんだ。その中から血がついていないものを選んでかじりながら戦闘記録を取ったり、艦の位置を海図に記してた。

死体を処理したり内臓を集めてバケツに入れたりしていると、生と死が紙一重すぎて同じことのように感じるんだよ。立ってる位置が10センチ違っただけで生死が別れる世界。戦場における人の生き死になんて完全に運だよ。どこにいたら安全なんてことは全くない。今目の前にある死体が自分であっても何の不思議もない。本当に生も死も一緒。だから自分は今日は生き延びられたけど、明日はダメだろうという感じだった。

アメリカ軍の攻撃を受け沈没しつつある空母「瑞鶴」

そういう状況の中で死に対する恐怖は全く感じなかったのですか?

死の恐怖なんて全くなかったなあ。そんなことよりも強烈にもっていたのは使命感かな。軍人として国を守るという職務を全うしなきゃならんという使命感だよ。

この時の戦闘記録は、大した爆撃もなくて全員無傷だったのに誤字脱字だらけだったマリアナ沖海戦と正反対で、かなりやられて修羅場だったのに客観的にしっかり書けていたんだよ。マリアナからわずか数ヶ月しか経っていないのに。たぶん、マリアナの時は死の恐怖なんて感じてないつもりだったんだけど、本当は心の奥底では感じていたんだろうね。レイテの時は自分自身はちっとも変わっていないと思うんだけど、ちゃんと書けてた。やっぱりね、1回実戦を経験すると人間ががらっと変わっちゃうんだろうね。度胸がつくのかな、かなり冷静になった。これは自分でもびっくりしたし、随分自信がついたんだ。だから平時に何年もかけて一所懸命修業するよりも、わずか数日間でも死と直面する実戦を若い時にどんどん経験した方が別物になるくらい成長するってことだよね。

終戦後、池田さんは自身の書いた詳細な戦闘記録を元にして『海戦』を執筆している。ただの記録ではなく、情景描写や心理描写などが見事で、池田さんが体験した世界に引きこまれてしまう

結局この史上最大の海戦は武蔵をはじめ愛宕、摩耶など戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦合わせて約30隻が沈められ、事実上連合艦隊は壊滅。矢矧もボロボロにやられて戦死者・行方不明者合わせて47名も出してしまった。

沖縄海上特攻

昭和20(1945)年4月の日本海軍最後の戦い、沖縄海上特攻(坊ノ岬沖海戦)に出撃する時はどういう心境でしたか?

この時はね、測的長という、主として電探を担当する最高指揮官の職責で大和はじめ駆逐艦8隻で沖縄に向かったんだけど、上層部からは特攻だから片道分の燃料で行ってこいと命令された。死んでこいと言われているのはよくわかっていたよ。その頃はわずかに残った戦闘機も特攻で出撃していたけど、こっちは軍艦による特攻だよね。今度こそ間違いなく死ぬと思ったけど、さっきも話した通り死ぬ覚悟なんてものはもうとっくの昔にできているから別にどうということはなかったよ(笑)。戦争が始まって、本当に自分の命に未練はないか確かめたくて刀を抜いて自分の腹に当てたことがあったけど、いざというときは躊躇なく切腹して死ねるなと思った。だからこの出撃の時も、これでやっと終わるなという非常にさわやかな気持ちだったね。遺書も書いてない。

海軍が、撃沈されるとわかっていても大和を出撃させたのは、敗戦後大和が残っていたらアメリカに拿捕されて見世物にされてしまう。それを防ぐためだった。大和は日本帝国海軍の象徴だったからね。僕ら矢矧と駆逐艦8隻の使命は大和を守ること。もし沖縄本島まで到達できたら湾に艦を押し上げて最後まで撃てと命じられていた。だからどこに押し上げたらいいかを考えていた。でも沖縄に辿り着く前に鹿児島沖で敵機に発見されたんだ。

敵機の猛攻にさらされる大和

矢矧、大和、轟沈

矢矧は大和の盾になろうとしたけど敵航空機の猛攻で直撃弾12発、魚雷7本を受けて船は大きく左に傾いた。もはや操縦不能となって、水兵が脱出用のボートを降ろそうとしたんだけどものすごく傾斜してるからボートの滑車がうまく機能せず、なかなか降ろせなかったんだ。そんな中でも敵機が爆弾を落としてくるし機銃掃射もすごかった。それでたまりかねて僕が指揮して降ろそうとしたんだけど、水兵に大声で怒鳴ってもバンバン大砲を撃ってるから聞こえない。それでラッタルを降りて現場に行って、ボートのところで指図してようやく着水させた。やれやれと思ってるところに敵機の爆弾が降ってきて、3、4人乗ってたボートが吹っ飛んだんだ。矢矧自体も傾いているところにさらに魚雷が直撃。それで最後は傾いてる側が逆に上を向いて沈み始めた。そして4月7日午後2時5分、完全に沈没。僕ら生き残っていた兵たちは燃料の重油が漂う海に飛び込んだ。

魚雷と爆撃による猛攻を受ける矢矧

海に入って数十分ほど経ったとき、大和が巨大なキノコ雲に覆われたのが見えた。さしもの世界一の巨大戦艦も数百機の航空機に一斉攻撃されたらひとたまりもなく、被雷8本以上、直撃弾10発以上を食らって沈没。その大和が沈みゆく姿は今でもはっきりと覚えてるよ。

敵機の集中攻撃により爆発炎上し、巨大なキノコ雲を発しつつ沈没する大和

わずか1年で連合艦隊全滅

目の前で大和が沈むのを見たときはどういうお気持でしたか?

沖縄の前に、レイテ沖海戦で大和と双璧をなしていた巨大戦艦・武蔵がやられて、最後に大和でしょ。僕らが世界最高だと思っている戦艦が目の前でどんどん沈んでいく。それはね、ショックというよりは、さもありなんという感じだったよ。だって、当時の海戦はすでに空母、航空機の時代。マリアナ沖海戦以降、日本側には航空機がほとんどなかった。船を護衛してくれる航空機がいないってことは丸腰で戦いに赴くのと同じだからね。でも、航空機が戦艦なんかよりも強いと最初に真珠湾攻撃で証明したのは日本の方だったんだから皮肉なもんだよね。

そもそも沖縄海上特攻の時の彼我の戦力差は15倍。刀しかもっていない武士が近代兵器を装備した軍人に挑むようなもの。いかに大和が宮本武蔵級の最高の剣豪だとしても、機関銃をもった軍人相手ではどうにもならんよ。

僕の初めての実戦だったマリアナ沖海戦の時には勇壮を誇っていた日本帝国海軍の連合艦隊がわずか1年足 らずでほぼ全滅するのを全部目の前で見たわけですよ。それがショックといえばショックだったかな。

海に投げ出された後はどうやって生き延びたのですか?

僕自身も当然、助けられるとは全く思っていなかった。海面を漂っていたら米軍の航空機が僕たち目掛けて執拗に機銃掃射してきてね。この野郎と怒りが湧いてきた。僕らはそういうことは武士道に反すると思って絶対にしなかったからね。周りでもどんどん仲間が撃たれて、あるいは力尽きて海の底に沈んでいった。

僕には運よく当たらなかった。敵の航空機が去った後、最初は浮遊物に捕まっていたんだけど、徐々に浮力がなくなって使い物にならなくなり、立ち泳ぎをせざるをえなくなった。立泳ぎもけっこう疲れるんだよ。そのうちだんだん冷えて感覚がなくなってきてね。当時は4月だから海の水がすごく冷たくてね。苦しいという感覚すらもなくなるんだよ。ああ、凍死というのはこういうものか、こういう感じで死ぬのかなと静かに死を待つという心境だったな。だからもう立ち泳ぎもやめようかなと思ったんだけど、人間、なかなか自分からは死ねないもんだよね。それで結局5時間半くらい漂っていたところで、生き残っていた冬月という駆逐艦に救助された。作戦が中止になって、司令部から10隻中4隻残った船に生存者を救出して帰れという命令が出たんだ。船から救助ロープを降ろしてくれたんだけど、もう体力は限界だし、重油で滑るしでなかなか登れないんだよ。でも何度か挑戦して何とか登りきれた。その時点まで生きていたけど登りきれずに海中に沈んでいった仲間もいたよ。結局矢矧の乗組員のうち、446人が戦死してしまった。

よく生き延びられましたね。

これはもう運だよね。本当に、運以外の何物でもないと思うよ。

矢矧が沈んだ日が自分の命日

ロープを登りきって船に上がったときの心境は?

よかったとかほっとしたとか、これで助かったという安心の感情はこれっぽっちもなかったよ。負け戦というのはこういうもんかと、逆にみじめな気持ちだった。

多くの戦友が亡くなったのに自分は生き残ってしまったというような感情ですか?

いや、そういうことよりもともかくみじめだったな。つらかったのは、船に救助はされても佐世保港に帰還する間に息絶えた戦友もたくさんいた。通常ならご遺体はちゃんとお棺に入れて陸揚げして埋葬するんだけど、矢矧に関することはすべて極秘事項で、一般の人に見せちゃいけないから大きな釘樽の中にご遺体を押し込めて物資を輸送しているように偽装して陸揚げしたんだ。死体とはわからないように。それが悲しかったな。

沖縄海上特攻の様子も非常に克明に覚えていらっしゃいますが、やはり冷静に記録なさってたのですか?

うん。沖縄の時も非常によく見えていて、戦闘中も、矢矧が沈む時も、戦死者の状況も、海に放り投げられて泳いでいる時も実に客観的に見てよーくわかるわけ。この時も実戦に放り込まれたら修行なんてしなくても人間が変わるんだなという実感があったね。

港に着いたときはどういうお気持ちでしたか?

佐世保港に着いた時、燃え尽きて抜け殻状態だった。20歳で死ぬ覚悟を決めて出撃したのに死にきれなくて、連合艦隊も全滅しちゃったからね。生きる目的を完全に失ってしまってた。矢矧が沈んだあの日が僕の命日で、これからの人生は余生だなって思った。まだ21歳だったけどね。

何かに生かされたとしか思えない

マリアナ、レイテ、沖縄の三大海戦に全部参加して生き延びたのは奇跡としかいいようがないですよね。

そうね。これはちょっと考えられないよね。生きてるのが不思議なくらいだったよ。3つの海戦に全部出て最後は船もめちゃくちゃになって沈んでるのに生き残ってるんだからね。兵学校のクラスメートの中で僕1人ですよ。何かに生かされたとしか思えなかった。戦場での生き死には自分の意志でどうにかなるものじゃないからね。

顔に大やけどを負う

ケガはなかったのですか?

矢矧に命中した魚雷がすぐそばで爆発した時、とっさに軍手をした手で顔を覆ったけど、爆風で顔が焼けただれちゃってね。軍手は焼けてなくなって顔に手の跡がついていた。それほどの大やけどなら普通はケロイド状に火傷の痕が残るんだけど、佐世保に着いて海軍病院の軍医に診てもらったら最高の応急処置をしてますねと褒められた。軍医の言うことには、やけどを負った時、やるべきことは2つ。1つは患部から空気を遮断すること。もう1つは冷やすこと。これが応急処置だと。その時は激戦のまっただ中だからもちろんそんなことは何にもできなかったんだけど、その2つとも偶然にもやってたらしいんだな。

どういうことですか?

1つ目は、魚雷を食らって海に投げ出されたんだけど、その海は沈没した船の重油であふれていたからやけどを負った顔も重油で覆われていたこと。2つ目は、まだ4月で海水の温度が低体温症になるほど冷たかったこと。この2つの偶然が最高の応急処置になったんだ。

ただ困ったのは眉毛が燃えてなくなったこと。眉毛ってなかなか生えないんだよ。救助されて半年間、鉛筆で眉毛を描いてた。それとね、長時間重油の海を漂っていたから毛穴に重油が染みこんじゃってなかなか取れなかった。重油って風呂に入 って石鹸で洗ったくらいじゃ落ちないんだよ。海軍病院から退院して、数ヶ月経っても「池田は重油くさい」っていろんな人に言われたもんね(笑)。

潜水学校の教官に

傷が癒えた後は?

もう乗る艦がないけどどうするんだろうと思ってたら、広島の大竹にあった潜水学校の教官を命じるという辞令が降りた。僕は潜水艦なんて乗ったこともないのにどうして教官をやれなんていうんだろうと思ってたら、当時の潜水学校では予備学生を特攻潜水艇の乗組員にするための教育をしてたんだ。

特攻潜水艇といえば「回天」が有名ですがそのような船の乗組員ですか?

そうそう。海の特攻隊だよ。当時の日本は最後の最後まで戦争をやめようとしなかったからね。

原爆が落ちた日

その教官をしているときに原爆が落ちた。1945年8月6日午前8時15分。その日のこともよく覚えてるよ。潜水学校は爆心地から30kmくらい離れているんだけど、ちょうど朝の授業を始めるという時間だった。学校の自分の机で今日はどんな講義をしようかと考えていた時、突然部屋がビカッ! と光ったんだよ。どこかの電線がスパークしたのかと思って机の下をのぞいた瞬間、ズシーンと衝撃が来た。その時は海軍が極秘で近くの山をくり抜いて火薬庫を作っていたからそれが爆発したのかと思った。もちろん原爆なんて知らなかったからね。

僕らは内火艇を出して瀬戸内中を走り回って、ご遺体の収容作業に当たった。河口付近は流されてきた真っ黒焦げのご遺体であふれててね。まさに地獄だったよ。また、当時勤労動員で大勢の一般のおばさんたちが広島に行ってて、そういう人たちがみんな被曝して夕方、帰ってくるんだけどもう惨憺たる状態でね。そういう人たちのお世話もしたんだけど、みんな大やけどをして、皮膚が剥がれ落ちちゃっているんだよね。そこに白いものがたくさんついてる。よく見るとウジ虫でね。ウジ虫ってあっという間に湧くんだよ。そのウジ虫をね、傷口からずいぶん割り箸で取ったりした。そういう覚えがあるんですよ。

終戦

終戦の日はどのように迎えたのですか?

潜水兵学校で12時から重大な放送があるから教官室に集まれというアナウンスがあった。でもあの頃、重大な放送といったって負け戦ばっかりしてたから、また気を引き締めてやれというようなくだらない訓示だろうと思ってサボっちゃった。それがあの終戦の詔勅だったんだ。だから直接は聞いてないんだよ。部下が伝えに来て初めて日本が負けたことを知ったんだ。

その時はどういうお気持ちでしたか?

周りはみんな悔しがってたりショックを受けてたりしてたけど、僕はホッとしたね。なぜかというとね、教官をやってるときに、日曜日に外出するとそこらへんでまだ4、5歳の子どもたちが無邪気に遊んでるわけ。当時はよもや日本が敗北を認めるなんて想像すらしてなかったから、当然本土決戦になって敵がどんどん上陸してくるだろうと思っていた。そうなったとき、この子たちはどうなってしまうんだろうと、非常に子どもたちのことが気になったのをよく覚えてる。もうその子たちも70歳くらいになってるけどね(笑)。また、戦争が終わった以上、僕が教えていた生徒も特攻に出ていたずらに命を落とすこともない。だから「これで町の子どもたちも、若者たちも大丈夫だ」と思ってホッとしたんだよ。

そして、生き残ったからには国のため、死んでしまった戦友のために何かせにゃならんなと思ったね。

大本営への恨みとか怒りとかはなかったんですか?

そんなものはないない(笑)。そもそも大本営なんて雲の上の存在であんまり知らないしね。僕らはひたすら海の上で使命を果たすということしか考えていなかったから。

『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(井川聡/光人社)には池田さんが戦った三大海戦の詳細が記されている
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