訪ねてもらいたいー歴史を読み解きまちづくりを学ぶ
本年、日本設計関西支社開設50周年を記念し、 関西での50のプロジェクトを紹介する展示を、大阪の建築を公開するイベント「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪(通称:イケフェス大阪)」にあわせ開催しました。今回は関西支社50周年・イケフェス大阪特別企画として、船場のまちづくり活動に広く関わる篠原祥氏(日本設計関西支社アドバイザー)を案内人として、入社8・12年目の日本設計関西支社社員2名が大阪市・船場エリアを訪ねました。
日本設計関西支社(map1)は淀屋橋駅からすぐ、「イケフェス大阪」で通称「セッケイ・ロード」と呼ばれる、設計事務所が集まる高麗橋通と、御堂筋の交差点に位置しています。今回のまちあるきは日本設計関西支社からスタートし、高麗橋通を東へ向かい各所で歴史的な建築物や日本設計の実績を訪ねながら、大手前のNHK大阪放送会館・大阪歴史博物館を目指します。
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主要ストリートを歩きながら大阪のまちづくりを学ぶ
篠原:御堂筋はより人が集まる中心地へ、時代とともに変遷してきました。かつては細い道でしたが、昭和12年に拡幅工事が完成しました。現在はさらに車から人中心の道路に変えていこうという試みが行われています。道頓堀川の辺りでは既に側道を歩行者専用道に変える整備が始まっており、日本設計関西支社の辺りでも、新たな道路空間のあり方を検証する社会実験”御堂筋パークレット”が実施されています。御堂筋完成100周年となる2037年にフルモール化を目指すという「御堂筋将来ビジョン」も公表されています。
篠原:御堂筋沿いは以前、百尺規制があり建物の高さが百尺(31m)で揃っていましたが、平成7年、規制が変わり高さ制限が50mまで引き上げられ、代わりに建物を道路からセットバックすることになり、このセットバック空間で様々なイベントなどがおこなわれ、御堂筋に新たな賑わいを生み出しています。そうした時代ごとの規制に応じた建物の歴史が御堂筋沿いに見て取れます。
山本:NMプラザ御堂筋(現:御堂筋MTRビル、1999年、map2)は百尺規制の緩和適用第1号です。低層部は2層吹き抜けで、街への広がりや賑わいが重視されています。
船場の歴史を振り返ると、豊臣秀吉が大坂城を築いた時代に遡ります。大坂城から城下町が広がり、商人の町として船場の町が形成されました。今日のまちあるきのエリアは戦災で被害が少なく昔からの建物も残るエリアです。
篠原:芝川ビル(1927年、map3)は、建設時には応接室や娯楽室などの自家使用のほか、花嫁学校として使われていたそうです。戦災により正面のレリーフは焼け焦げ、屋上に増築もされていましたが、およそ10年前に昔の姿に復元されました。現在はイベントなどにも使われ、大阪の代表的な近代建築のひとつとなっています。
篠原:三休橋筋沿いに建つ日本基督教団浪花教会(1930年、map4)も大阪市内の近代建築の代表的なものです。W・M・ヴォーリズの設計指導による建物(設計は竹中工務店)で、100年近く建設当時のままの姿で教会として使われ続けており、老朽化した外壁や窓枠が、2020年に修復されました。
三休橋筋は御堂筋と同じ時期に拡幅され、船場の中では数少ない歩道や街路樹があり、歴史的な建築も多いヒューマンスケールな道でした。それらを生かしたまちづくり活動が2000年頃に始まり、そのことに着目した大阪市は、電線の地中化、歩道の拡幅などを行うことを決定、地域の方々との協働によるプロムナード整備が実現しました。歩道拡幅に伴う街路樹の植え替えでは、三休橋筋の北端にある栴檀木橋(せんだんのきばし)にちなみ、樹種を”センダンの木”に決めました。また大阪ガスや地元企業などの寄贈により55本のガス燈が灯る”ガス燈通り”へと変貌しました。
ガス燈と街路樹が並ぶ。
1983年、船場のまちが変化していく時代に、これからの船場に必要な機能ということで建てられた三井ガーデンホテル淀屋橋(1983年、map5)は、総合設計制度を利用して建てられました。
篠原:三井ガーデンホテル淀屋橋の広場は公開空地としては初期の例と言えます。当時としては貴重な広場でした。今なお多くのイベントなどに使われています。
山本:よく来るお店が隣にあり、馴染み深い場所です。近年では道路と公開空地を一体的に活用し、歩車共存を実現する先進的な取組みもあり、約40年を経ても地域に根付く空間だと感じます。
公開空地としては初期の例。
篠原:堺筋は、市電を通すために御堂筋や三休橋筋よりも早く拡幅されました。当時は三越や白木屋、高島屋などの百貨店が並ぶ大阪のメインストリートだったのです。
その後、市電の廃止や地下鉄の発達により、まちの中心軸は御堂筋に移りましたが、堺筋沿いには高麗橋野村ビルディング(1927年、map6)や三井住友銀行大阪中央支店(1936年、map7)、旧小西家住宅史料館(1903年、map8)など、歴史的な建物が今でも残っています。なかでも旧小西家住宅史料館は重要文化財に指定されている木造の旧家です。30年ほど前まではコニシ株式会社の本社があり、今も史料館として使い続けられています。
重要文化財に指定されている木造の旧家。
篠原:道修町(どしょうまち)通は古くから「薬の町」として発展し、今も製薬会社の本社が多く立地しています。道修町通沿いにある少彦名神社(map9)は薬の神様を祀る神社で、毎月23日には献湯祭、また年に一度、11月には神農祭が行われます。薬業で今も街が成り立っているのです。 昨今、船場エリアではタワーマンションの建設が進み人口が急増していますが、道修町は人口変化が少なく昔ながらの営みが残っていることも、まちの貴重な一面と言えます。
篠原:平野町通は江戸から明治末頃までは大阪の十大商店街の一つでした。今も個人商店が建ち並び、その気配を感じることができます。堺筋との交差点にある生駒時計店(生駒ビルヂング)(1930年、map10)は 、ビルオーナーの強い意志によって当時の姿のまま使い続けられており、イケフェス大阪などのまちづくりの活動にも積極的で、大阪の代表的な歴史建築となっています。
水辺とともに生きる街
篠原:船場は東の東横堀川、西の西横堀川、南の長堀川、北の土佐堀川という、四方を川で囲まれていたエリアを指します。マップの水色のエリアは豊臣秀吉の時代(慶長3年)に開発されました。現在も残るのは土佐堀川と東横堀川のみ。長堀川は現在の長堀通、西横堀川は現在、阪神高速1号環状線が通っている場所です。
東横堀川は大坂城の外濠として開削された最古の堀川です。高速道路が川上を走り、都市の裏側的な空間でしたが、都市における川の魅力に着目し、東横堀川水辺再生協議会(e-よこ会)が中心となって、まちづくりが進められています。 そのひとつが、本町橋のたもとのβ本町橋(map11)。2021年にオープンした河川・公園空間を活用する施設で、さまざまなイベントの開催などによりまちの魅力を発信しています。
堀:なぜ大阪ではこのように地域主導のまちづくりが活発なのでしょうか?
篠原:たとえばこの東横堀川では、隣接する大阪商工会議所が事務局を担うことで、周辺のお店、町会、少彦名神社の宮司などが集まり、活動の中心になって活発化してきました。大資本が参加して引っ張ってきたわけではありませんが、この10年ほどで急速に活性化して成果が出ているのは、多様なまちづくりの担い手がいたということが大きいですね。
堀:船場の魅力の背景には、先人達が構想した大胆な都市計画と、愛着を持ってまちに関わる地域の方々の持続的な営みの双方があるのですね。私自身、大阪で都市計画に携わる身として、とても勉強になります。
高麗橋(map12)からは、東横堀川水門(map13)が見えます。
東横堀川水門を見る。
篠原:この水門では、水質管理、水量調整をしています。土佐堀川、堂島川は水位が変わるので時間帯によっては淀屋橋、大江橋のような高さの低い橋の下は船が通れないこともあります。不便もありますがそれは川と都市が近いことの表れで、川からまちを眺めるクルーズツアーもあり、川と都市の関係を楽しんでいるのが大阪の特徴なんです。
高麗橋は大坂城と商いの場だった船場をつなぐ橋として整備されました。朝鮮から来た使節団が大坂城へ向かう途上でこの橋を渡ったことから名付けられたとも言われています。 高麗橋のたもとには里程元標跡(map14)があります。高麗橋は大阪では少ない公儀橋(幕府により架けられた橋)で、お触書を掲示する場所となっていたり、各所への距離を測る起点になっていたりなど、大阪の中心的な役割を担う格式高い橋だったことが分かります。江戸時代の高麗橋通には呉服店や両替店などはじめ様々な業種の店が立ち並んでいたそうです。
江戸時代、距離を測る起点になっていました。
高麗橋を渡りさらに東に向かうと上り坂となり、上町台地の地形を感じることができます。さらに北に向かうと、大川沿いに出ます。
篠原:このあたりは、平安時代は渡辺津と呼ばれる熊野古道へ向かう起点であり、江戸時代には八軒家浜として、京都と大阪を結ぶ舟運の要衝として栄えた地です。京阪電鉄中之島線の建設に合わせて水辺の空間整備が行われ、平成21年に、にぎわい施設として「川の駅はちけんや」が整備されました。 水都大阪の拠点の一つです。
水辺を使ったイベントやアクティピティが楽しめます。
まちづくり終点、大手前エリアへ
ロンナービル(map15)、室谷本社ビル(map16)の2つの建物は同じ街区にありますが、船場は通りの両側で一つの町を構成する「両側町」であったため、町名が異なります。
NSビル(map17)がある谷町筋から東側は、かつての大坂城三の丸の範囲になります。江戸時代は武家屋敷、明治期からは軍用地として利用され、現在は官公庁や学校が立地しています。
大阪国際がんセンター(2016年、map18)が見えてきました。
提供/竹中工務店
大阪国際がんセンターの「刻印石の庭(map19)」には、徳川時代、大坂城を再建した際に石垣となるため運ばれたものの、残念ながら使用されず残った石(残念石)があります。
大坂城再建の際に使用されなかった「残念石」を発見。
隣には2022年に竣工したばかりの大手前合同庁舎(2022年、map20)。大阪城公園の西側に位置する大手前地区は、合同庁舎などが複数あり、官庁街を形成しています。
府庁新別館と大阪国際がんセンター前庭との結節点には広場があり、この広場と本町通側の広場を繋ぐように、上町筋と平行な石垣を模した壁が、エントランスホール内外を斜めに貫通しています。
クレジット:伸和
本日のゴール、NHK大阪放送会館・大阪歴史博物館(2001年、map21)へ到着しました。放送局と博物館という異なった機能を一体化させた大型複合施設で、2棟の間には球形の巨大アトリウムが設けられています。外観は「水の都大阪」を象徴し、博物館は船、放送会館は帆をイメージ、その舳先は大阪城を向いています。
もっと詳しく知りたい方は:大阪市内の主要プロジェクトをプロットした「 NIHON SEKKEI建築まち歩き MAP in Osaka 」も公開しておりますので、まち歩きの参考にしてください。
2022年10月28日 特記なき撮影:日本設計広報室