ヒストリー

1. 組織と技術

日本初の超高層ビル建築計画、始動。

1960年代、日本は高度成長期の頂点を迎え、都市の近代化にも拍車がかかっていました。その中、日本初の超高層建築である霞が関ビルディングの計画が進められていました。地震大国である日本に超高層ビルを建築することは前例のないチャレンジです。その基盤となったのは柔構造による耐震設計をはじめとするテクノロジーの進歩ですが、それだけではこの建物は完成しなかったことでしょう。新しい技術領域を開拓していくには、設計組織自体の変革が不可欠だったのです。

日本初の超高層ビル 霞が関ビルディング
(撮影/川澄・小林研二写真事務所)

公園より見た霞が関ビルディング
(撮影/川澄・小林研二写真事務所)

行く手には、見えない大きな壁。

36階建の霞が関ビル計画案が完了した翌年の1965年、建主・設計・施工・設備など多彩な組織の代表者によって『霞が関ビル建設委員会』が設置されました。日本初の超高層ビル建築のために、それぞれの組織からメンバーが集まり、全ての情報をオープンにして、全員が平等に意見を言い合える組織づくりを目指したのです。しかしながら当初は、真の意味でのディスカッションや情報交換はできずにいました。参加者の多くは出身組織の立場や利益にしばられ、グループは目に見えない壁に仕切られていたのです。

“グループ・ダイナミクス”という考え方。

日本初の超高層ビルの建築には、無数の難題が山積していました。一つひとつは小さな問題でも、それらをクリアしなければ先に進むことはできません。低層の建物ではなんでもないことなのに特別な難題になってしまったもののひとつが、地下のボイラー室から屋上までの200メートルを超える煙突でした。従来のコンクリート構造では柔構造に対応できません。スチールでは、日中と夜の温度差のために寿命に問題があることがわかりました。目の前に横たわる難題に、委員会のメンバーは行き詰まってしまいました。しかしながらその困難な状況がそれまでのメンバーの間にあった見えない壁を打ち壊す突破口になったのです。次第にメンバー全員が、自らの出身組織のこだわりを捨て、全ての情報を公開して目の前にある難題を解決するために議論をたたかわせるようになったのです。その結果、鉄筋コンクリート造の煙突を層間変形で動かすという解決策にたどり着くことができました。その後の『霞が関ビル建設委員会』は、多彩な分野の1人ひとりの意見やアイディアに全員が耳を傾け、その可能性を掘り起こすことで真に創造的な組織へと進化を遂げたのです。集団の作り出す知の総体は、個人の知の単純な総和よりも大きいこと。設計チームのチーフであり、のちに日本設計事務所を立ち上げる主要メンバーの1人となった池田武邦は当時を振り返り「先輩も後輩もなく、1つの目的に向かって全員が対等に意見を出し合う。これこそが、かつてアメリカで生まれた “グループ・ダイナミクス”という組織論の成果なのだと実感しました」と語っています。そして、のちに誕生する私たちの組織にもこの“グループ・ダイナミクス”という行動科学の理論が引き継がれています。

東京礫層に立つ建設委員会と顧問
(撮影/翠光社)

鉄骨工事
(撮影/翠光社)

工事風景
(撮影/翠光社)

誰もが対等で自由な組織を。

霞が関ビル竣工の9ヶ月前、1967年9月1日、私たちの組織である日本設計事務所が設立されました。従来のピラミッド型の指示系統を否定しフラットな知的交流の組織作りを目指すとともに、 “グループ・ダイナミクス”のコンセプトにもとづく行動規範を共有しました。そこには、それぞれの分野の専門家たちが対等に議論できる、自由で創造性にあふれた空気が流れていました。設立から50年経った今でも、その理念は脈々と受け継がれています。社員が全員「さん」付けて呼び合うのも、重要なのは年齢・経歴・肩書きではなく、個人一人ひとりの個性や技術であるという考え方が根付いているからなのです。

対等に議論する会議風景