ヒストリー

4. 都市を創る

戦後の都市計画で、叶わなかったもの。

日本の大都市、特に東京は第二次世界大戦の空襲により焼け野原になりました。そこで終戦直後から国や東京都は、人々が安全で住みやすく、しかも経済復興にも貢献する近代都市に生まれ変わるための都市計画に着手しました。しかしそれらは残念ながらすぐには実現に向けて動き出すことはできませんでした。予算の制約もありましたが、何よりもそれを実現するノウハウが蓄積されていなかったのです。都市という大きな視野で道や住宅街や公園を設計する都市計画では、行政が計画するだけでなく、その場所に住んでいる多くの人や土地所有者との地道な交渉が欠かせません。机上で描いた理想のプランニングだけでなく、地に足をつけた実行力が必要だったのです。

大空襲後の東京
(提供/(c)共同通信社/アマナイメージズ)

都市デザインという夢が、現実となった日。

高度成長期に突入する1960年代に入ると、都市計画を実現する必要がより大きく叫ばれるようになりました。通勤ラッシュや道路の渋滞、火災に弱い密集住宅地など、都市は多くの複雑な問題を抱えていたのです。この頃になると計画家たちは、プランニングするだけでなく実行力のあるチームをつくり、都市計画の実現に向けたプロジェクトを手がけることが必要だと考えるようになりました。その意図を持って最初に動き出したのが「東京都市計画霞ヶ関3丁目特定街区」でした。日本初の超高層ビルを誕生させたこのプロジェクトの成功は、世の中に近代都市への転換を印象付けただけでなく、理想の都市像を追いかけていたひとたちに自分たちが描いた都市デザインが実現できる道筋を示しました。

東京都市計画霞ヶ関3丁目特定街区全景
(撮影/翠光社)

  霞ヶ関3丁目特定街区 区域図
   

都市計画コンサルティングと事業コーディネート。

「計画を立てるだけでなく、それを実現させる技能や手法をもった組織がある」と、都市デザインに熱い想いを抱いていたひとたちが、私たちの仲間として集まりました。そして、1967年の発足以来、仕事の両輪として建築設計と都市計画を同時に動かしはじめました。その直後に取り組んだプロジェクトに「白鬚東地区再開発事業」があります。それは、隅田川と荒川にはさまれた軟弱地盤の江東デルタ地帯と呼ばれる場所を防災拠点として生まれ変わらせるというもの。そしてこの拠点作りは万が一の時に数万人の命を守るためのプロジェクトでもありました。私たちは設計を通した技術的なコンサルティングだけでなく、行政・地権者・地域住民の間に立つコーディネートで計画の実現に寄与しました。この経験は、戦後の東京を新たな近代都市に生まれ変わらせるプロジェクトにも生かされていきました。

白鬚東地区再開発事業
(撮影/翠光社)

江東防災拠点模型
(出典/伊丹勝,『計画力を支えるものは』,日本設計,2012,p17)

その23年は、東京の新たな未来のために。

2014年に新橋・虎ノ門間で開通した環状第2号線は、元々は昭和21年に計画されたマッカーサー道路と呼ばれる都市計画街路でした。本プロジェクトは、東京都施行の第2種市街地再開発事業、再開発等促進区を定める地区計画に、新たに制定された立体道路制度を重ねるというきわめて複雑なものでした。地下を走る都市計画道路である環状第2号線の上に「虎ノ門ヒルズ」を建築したものですが、道路と建築物を同時かつ立体的に建設するというインフラ整備の先駆的な事業となりました。道路の左右にある幅11mの歩道は道沿いの店舗のテラスにもなり、車を遮断すれば地域の人たちが活用できる広場にもなります。日本設計の都市計画チームが本プロジェクトに参加したのは1991年。完成まで23年の歳月を要した長期事業になりましたが、道路・建物・周辺住民との新たな関係を誕生させるためにはその時間は決して無為に過ぎたものではないと考えています。

虎ノ門ヒルズ
(撮影/エスエス東京支店)

虎ノ門ヒルズ 断面図